2002年の想い出佐野 孝幸2002年はやっと軌道に乗ったかなあと思っています。 今までは何となくだったものが実現した年でもあります。 突然の原谷君大阪転勤は大事件だったなあ。 まず、前半のCD作り。いろいろ不満もあるでしょうが4曲の完成はまずまずでした。 女性の歌は大失敗。これは無理矢理の部分が多かったと反省しています。 ただ、可能性を試した実験として見ればよかったと思っています。 確かに歌も最悪でしたが、バックのサポートも行き当たりばったりでした。 もう少し、緻密な構成を立てないと発表出来るレベルには至りません。 2回の合宿も実施しました。これはたいへんな成果をもたらしたと思います。 5月は「大漁唄い込み」の取り組みで学生時代のレベルに近づけたこと。 9月は暗譜することで一段レベルアップしたこと。 これらは通常の月一回の練習だけでは到底実現できませんでした。 機材の装備はちょっと画期的だったと思います。 学生時代、男が夜中に回転ベッドを運ぶバイトして揃えた思いが蘇って懐かしかった。 個人的には最後まで揃わなかったマイクアームを探し続けたことかな。 ライブではそのアームが垂れちゃった。( ̄(●●) ̄;).フムゥ これらの反省がどう生かされるかが今後のカギです。 バンドのMEMBERと自分の楽しさに関する考え方が違うかも知れません。 といってみんなのことを非難しているんじゃなくて、ありがたく思っています。 課題の克服に協力していただいたことにです。 たぶん、なんでそんなことするんだとか、本当に必要なの?とか疑問もあったでしょう。 十分に説明する時間がなかったことと、ほとんどが思いつきだったからですね。 目標はいっぱいあります。これからもみんなで協力出来たらなあと思っています。 ひとつは聞いた人が「もっと聞いてみたい」バンドにしたい。 これはライブパフォーマンスにおいての理想かな。 CDは「歌を残す」から「いいものを残す」コンセプトに変わっちゃいました。 どうやら後1年ではCDの完成には至らない。 年は取っても未来はあると信じて一歩前進かな。 2002年12月12日 氏家 由恵 BACK!TOGETHERとしては、ことしは飛躍の年でしたネ! バンドとしての意識がただ集まってお茶して楽しいから、少し一歩踏み込んだ年でもありました。 この仲間のおかげで、ほんとうに一年が早かったし、又月一回の練習が気持ちの上で「ハリ」にもなったし、 一つの目的の為にみんなで作り上げていく事の喜びも味わえたり、なによりもコンサートで、 学生時代にタイムスリップ出来たのは、とってもうれしかったですネ. いつまでも大切にしたい仲間がいて、いっしょに活動出来る喜びとそして、ことしみんな健康で 歌えた事に感謝しまーす!来年もヨロシクネ. 2002年12月16日 阿部 節矢 2002年の総括 初めは、仕事の息抜きみたいは感じで始めたのが、結構真剣になってきました。 それは、少ない時間だったけど、舞台で歌えた事が、昔を思い出しはじめたという事かな。 歌詞を覚えるのがこんなに大変な事だったとは・・・・会社の行き帰りの電車の中で、 声を出すわけにはいかず、歳と共に記憶力が低下しているのは否めません。 月一回の練習のペースは、これでいいと思います。 これ以上になると、仕事もあるしかえって練習がストレスになりかねません。 目標は、単独ライブ、もう一度リーズンもやってみたいしね。 でも大変そう。原谷も今年は大阪にいったばかりだし、来年は少しは落ち着くのかな。 佐野には色々負担をかけて申し訳ないとおもっています。 でも、来年はここのスキルアップをしないと、現状のままかも。 正直いってあまりハモッテいないと感じるのは俺だけかな。 後は、歌のメリハリとバランス これは練習しかないね。 まあでも好きな事を続けられるのは幸せなこと。来年も頑張ろう。 2002年12月24日 秋岡 和行 世間の皆が休みの日に仕事をしている僕にとっては、練習も、コンサートも スケジュール的に厳しい面はあったがとても充実した一年でした。 ここまで来た今、更に上を目指して来年もがんばりましょう。 要望、 ○マイクスタンドを直して下さい ○受け狙いに最新のヒット曲を取り込んでみてはいかがでしょう それでは1月2日にあいましょう よいお年をお迎え下さい 2002年12月24日 森田 純一 マイ2002年の想い出 バックトゥギャザーに参加して2002年の私の重大事件は原谷さんの転勤に 伴い当然のようにベースを担当する事になってしまった事です。 そしてよもやと思いきやウッドベースの購入!! ものすごいプレッシャーがのしかかってきました。それまでは唄だけ唄っていれば 参加した気になっていた自分が浅はかでした。ベースを弾くなんてマジに大学卒業 以来ですからど素人と一緒で、うまく弾けるかよりどこを押さえればCの音が、 Aの音が等々迷いまして、ましてベースを持って立つだけでも恥ずかしくて みんなからの視線を一身にあびてプレッシャーの中で音をはずす度に足を引っ張っているのは 俺1人だけなんだなあと顔が赤くなってしまいます。皆は弾けない事は判っているから ステージでは格好だけでいいと云うけど佐野さんからは全々音が入ってないと 怒られるし、才能のない自分には努力しかないと感じてはいる今日この頃です。 2003年は2002年よりは練習するつもりです。 プレッシャーに弱い森田でした。 2002年12月31日 野々山 みどり ”BACK!TOGETHER” 原谷さんが参加出来ないのはさみしいですが、そのBASSを森田さんが。・・・ ジンタンも12弦を...。 みんな一生懸命ですごいですね。 ひたすら感心しています。 皆様の足を引っ張らない様に頑張ろうと思いました。 合宿に参加して、自分の中に、今まで気が付かなかった(忘れていたのかな?) もう1人の自分を見つけた様な気がしました。 音楽は一生の友だちですよね。 2002年12月25日 |
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Get Togetherの誕生 1970年4月横浜のヤマハ主催による横浜フォークキャンパスの旗揚げ(笑)打ち合わせが行われました。 関東学院大学(KGU)、フェリス女子短期大学、神奈川大学の3大学でコンサートをやろうということでした。 KGU以外は関東フォークソング連盟なる組織での活動があり、SingOutの形態で活動してまして、KGUはバンドで活動。 2対1でSingOutの勝ち!(^0^))☆爆笑☆((^Q^)v ![]() 内容部分 さて、我々もSingOutをやらないとということで、KWFMA(KO大)に知り合いがいましたので見学しました。 SingOutと云っても基本的にニュークリのコピーでした。どうせ、他も同じだろうとタカをくくって受けちゃいました。 バンドも出ちゃおうってことで、SingOutは「おまけ」くらいに考えていました。 ところが他の2校は合同でもやろうとか、ウザイ話になっちゃいまして、益々、困惑。 こんな話は断れって渉外担当はぼろくそに云われたりしました。 とにかく、口だけは負けるなってことでしたね。 なにしろ、当時は2年生が最上級生みたいなクラブでしたから交渉などでたらめ、喧嘩腰でした。 コンサートはというと、他はニュークリ、KGUはスクールメイツでした。歌って踊っちゃう。 みんなで踊って1曲歌うとバンドが出てきて他はバックダンサー。まあ、暴れまくったコンサートでした。 コンサートの為に始めたSingOutでしたがそのまま続けることになりバンドの名前も初めての曲名をそのまま頂くことにした訳です。 |
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Get! Togetherの再開 1969年入学の連中はラグビー観戦などで年に数回集まってました。 たぶん他の年度も同じで同期は適当に顔を合わせていたと思います。 1999年春に相場君が仕事場に来て、バンドを始めましょうという誘いになんとなく乗っちゃいました。 夏には当時のメンバーと顔合わせと話し合いがてら品川プリンスホテルに集まり、懐かしい想いがいっぱいでした。 1999年11月に湘南シーサイドカントリー倶楽部にて再び集まって月一回の練習だけきめました。 練習曲もいろいろ出ましたが決まらず懐かしさと勢いで船はこぎ出されてしまいました。 練習場所としては相場君が近所の地区センターを借りてくれる事になりまして12月初練習しました。 大学当時の練習はほぼ毎日3時間位に及んでかなりまとまっていましたがなにせ月一回ですからどうなるか見当もつきません。 レコーディングミキサーを買いましてマイク、ヘッドフォンなど道具立てを揃えて気分を盛り上げました。 とりあえず、歌を歌うという練習からはじめました。適当にオケを打ち込んでそれに歌を被せる練習。 それにメンバーもなかなか歩調も合わず休んだり辞めたりで固まるまで数回の練習が必要でした。 地区センター祭の出演が決まり20分歌うことで自覚とかメンバーの気持ちも揃ったんではないでしょうか。 2年やって曲のコーラスを忘れないように録音を本格的に始めないと新しい曲に入れないと考えました。 8曲のうち3曲は打ち込みバックでしたので残りの5曲の録音を始めました。 当時8チャンネルでしたので録音にも限界を感じ、16チャンネルのHDレコーダを購入しなおしました。 一応2003年には1枚のCDを仕上げるように今計画しています。文責:佐野 機材増設について2002.11.13 学生時代の4年間を共に過ごし、普通はとても楽しい、いい思い出として人生の中に埋められるべき日々でした。 卒業後30年あまり経ち別にそれぞれを思い出すこともなかったと思います。 3年前に再会した時も思い出はあるけど、一緒にある意味で過ごすとは全く考えていませんでした。 まあ、過ごすというのは同じ目的で時間を共有するって意味ですけどね。 再開した時と今はかなり変化したものがありますが、特にバンドの一員としての自覚ね。 自分ははじめの1年はまあ適当にみんなの気持ちを確かめるというか、歌をいっしょに歌おうか位ね。 1年やったから録音したり、どこかに出てみようか。 まあ、ここまで来るとあとは勢いがでますね。 3年目で本格的録音(これで2代目のレコーダー)でひとつは軌道にのってゆっくり行こうかって感じですね。 次はライブね。 ライブの為には是非、合宿。これもみんなの練習意欲みたいなのが感じられてよかったですよね。 特に歌詞を見ないのは大きいです。 ある方に「プロみたい」って云われたんですが、理由が歌詞を見ないで歌える凄さだって。 「記憶力が薄れる年頃だから、呆け防止なのよ」って云ったら笑ってました。 確かに下を向いてぼそぼそ歌ったんじゃカラオケだよな。 そんな中で称名寺、ピアフェスタとライブしたんだけど、どうも情け無い。 なんでいつもマイクとかPAとか巧くいかないの。 あんな稚拙な機材でも仲間は結構評価してくれるんですがありゃ、おせいじね。 迫力なし、ハモも聞こえない。そりゃ太鼓の生に勝てる訳ないよね。 バリのダンサーの色気に勝てるわけもない。 ソロでぼそぼそやってたってソレの方が巧く聞こえるよ。 まあ、挫折感があるでしょ。13人もいながら同じ数の客にも受けないバンド。 上手いとか、迫力があるとか、色気があるとか、何かありゃいいんだけどね。 やってて不愉快。(みんな頑張ってるのに悪いんだけどさ) ちょっと惨めっていうのかなあ。 いろいろ考えちゃったんだけど、ユニフォームでなんとかしないとなあ。が一点。 少しでも見た目がいいように。もう歌い出す前に脅かさないと(バリのねえちゃんにはかなわないだろうけど) それと安心できるミキシング。これでダメなら、アンプとスピーカーついたオーディオ族に話し付けちゃおう。 大黒埠頭にいっぱいいるからね。凄いよ。東京ドームでも聞こえそうな機材だから。 はやる気持ちを抑えて来年でもいいかなあと思ってましたが、なんとも我慢できない。 そこで実現の可能性を考えましたよ。闇雲じゃ金出させて悪いしね。 まず、ボーカルだけでもひとりが一人前になるようにって(だってさ、一つのマイクに何人も寄ってたかったって惨めでしょ) ドラムなんか5つ位マイクあるんだよ。 おれたちゃ3人で一人前かって思わない。不当な扱いを受けてるんだけどみんな平気なのか。 最低限だよ。歌い手ひとりにマイク一本。(まあ、安もんだけどね) なんで安いか。性能が悪いからです。 大丈夫か?全然問題ないです。 ダイナミックマイクは丈夫が一番。 ヨーロッパ系は声量がない人に向いている。繊細さがあるけど耐久性がない。AKGです。 アメリカ系は大声量の人がマイクをくわえて歌うマイク。まあ素人は一番安心。丈夫で安い。SUREね。 AKAIをそろえたけど、形はSUREのコピーだけど、適当に性能は同じ。バカ安で買えた。3000円位 SUREだって15000円位するしAKGだと2万以上。 マイクケーブルも大変です。 一応、10Mから5Mにしました。が、これは7mと5mで12m取れると判断。 今後必要なら10mでしょうね。 次に13人分を扱えるミキサー。 これって意外とないね。8本だといっぱいある。ロックンローラーは十分だからな。 これに原谷、石原、平田の分をいれると最低16だなあ。 一応16チャンネルのミキサーが最低条件 ミキサーはアナログとデジタルとあるけど声は絶対にアナログ。(デジタルだと最高級でもむずかしい) ヤマハのミキサーにしたのは安くて軽くてエフェクター(エコーとか)が付いてる。しかも性能がまあまあ。 実は人間の声って繊細(ダイナミックレンジが広い)だけど、たいして音域はないのね。 理想的にはコンデンサーマイク(真空管式)にコンプレッサー(大音量のリミッターだな)が一番。 これは録音の為には一番いいんだけど、マイクが10万以上だし、今のレコーダーじゃあまり意味がない。 楽器は音域が声に比べると広いんでいいマイクが必要(一応AKG) 手持ちを十分に活用しつつ必要十分な機材ということで、 数的にはそれぞれひとつふたつ余裕を持たせています。 だから16チャンネルなのに19本マイクがあります 初めは女性はハンドマイクと思ってマイクホルダーを買いませんでしたが、考えて結局揃えました。 但し、マイクホルダーは16個しかありません。(折れたら終わり) マイクスタンドには悩みました。 現在4本だから最低あと1本は用意しないといけないんだけど。 ストレートかブームか迷っています。 ストレートにフレキシブルシャフトをつければ大丈夫だけどなあ。バランスね。倒れないかなあ。 ブームは横のパイプを出来るだけ立てて後ろに延ばすようにすればバランスが取れる。 通常1本のマイクしかつけないのに3本つけてメインシャフトに1本つけるんだから安定は悪い。 これは、やってみないとわかりません。 ただ運搬を考慮するとできるだけ増やさないが基本。 残りはミキシングモニターのヘッドフォンでした。 さあ、あとはどんなに客をびっくりさせられるか。楽しみです。 もちろん、自分たちも気持ちよくなれるかもね。文責:佐野 |
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メンバー紹介 相場 政夫 (70年組)責任者 ギター担当 野球少年だった僕が音楽に出会ったのはサンケイホールでベンチャーズを見てからでした. 以来グループサウンズ,フォークとのめり込んで行き大学では女性の多いフォークソングクラブへ入部しました. いまだに気分はあの時のままです.これからもきっと. 佐野 孝幸 (69年組)プロデューサ ギター担当 趣味というより道楽.誰かの母親に「極楽とんぼ」って云われました. それで飯を食おうとかは全く思わず,遊びの極地を極めようとしている次第. 小学校4年の頃父がダンスに凝ってステレオなるものを買いまして,父と映画を見た帰りに「ローハイド」のレコードを買って貰いました. 小学校6年の頃,ザヒットパレードって番組があって,同級生の小室君にルイジアナママを教えて貰いました. 小室君は貧乏で勉強も出来なかったけど何故か歌には詳しかった. 中学校入学祝に父が東芝製のでっかいテープレコーダを買ってくれました. まあ,英語の勉強には良いだろう位のことだったんでしょうね. それでFEN(駐留軍放送)のトップ20とかティーンエイジャースオンパレードなど録音して聞き出しました. ということはやっぱり英語の勉強をしている振りをしてたのかもなあ. 中学1年の3学期に川崎のレコード屋で「シェリー」と「オンリーユー」を買いました. おばあちゃんが亡くなる2日前. フォーシーズンズの裏声とプラターズの裏声は全く違うけど何故か裏声レコードばっかり. それ以来,毎月10枚近くのレコードを買いまくりましたね. 当時では凄い金額ですがこれは祖母の妹が援助してくれてました. 日本の歌には全く接することなくアメリカだけでしたね. ヨーロッパは映画音楽がいっぱいあったんですがあまり興味がなかった. 「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」(シェリーフェブレ)どっちもすきだったなあ. 「陽気なネルソン」(リッキーネルソン)もありました. 「サンセット77」(PPM,ジョニーサマー)「ハワイアンアイ」(コニースティーブンス)ね. ビーチボーイズも頑張ってましたが69年ビートルズが出てきてアメリカの音楽は急激に変わっちゃいました. おまけにベトナム戦争とかで若者文化は貧乏で暗いイメージになっちゃいました. その直前にモダンフォークの波がありまして,そこに足を踏み入れることになって,高校で初めてバンドを組みました. 「ニューマウンテンドテカボチャ」で杏林フォーク合戦で審査員特別賞,テスコミュージックコンテストで準優勝, キリンビールも何か貰ったなあ.結構華々しい活躍でした.何しろ高校生.恐い者亡し. 当時,アメリカ文化センターでモダンフォークバンドが来て演奏会なんかありまして,マイク真木とか有名人が いっしょに聞いていました. 結局,中学時代は高崎一郎のDJにあこがれ,高校時代はモダンフォークでしたね. 中高は進学校でしたが,そんな関係で大学には入れず,入れてくれたのが関東学院大学でした. ここではもっと華々しい活動がね. 大学卒業後もバンド仲間とはレコードを作ったり,コンサートを開いたりしていましたが, 86年で休止.91年にソロでCD. 98年に相場君がバンド組みましょうってお誘いをかけてきました. 大学時代の仲間でまたかよって感じでしたけど,機材をそろえるうちに楽しくなってきちゃいまして, 月一回の練習がよかった.これ以上でもこれ以下でもだめだったな. 選曲したり,バンド名とかロゴを考えたり,みんなより楽しんでいますね. そんな訳で03年CD制作まで頑張ります. 矢口久美子 (70年組)マネージャー 子供時代,大好きだった音楽ではあるが,中高と進む内いつしか学業(?)の合間に口ずさむ程度となっていたのですが, 高校入学当時本格的フォークソングブームと共に,コンサートや,バンド活動(友人)と,にわかに目覚め, フォークソングクラブの戸をたたいた. 今では,この仲間が,私の財産となりつつあり,時の流れを痛感しつつ,音楽とは音を楽しむものだと自分自身納得しております. 原谷 昭夫 (69年組) ベース担当。 阿部 節矢 (69年組) ギター担当。 1950年北海道生まれ.小学校では合唱部,NHKのコンクールでたしか荒城の月を歌いました. 中学生の時にベンチャーズ,ビートルズとの出会い,これは衝撃的でした.エレキギターを買って貰ったものの, アンプが買えずラジオにつないでよく感電.9500万人のポピューラーリクエスト,S盤アワー良く聞きました. 高校の友だちの影響でフォークソングをやり始め,大学に入っても何となくフォークソングクラブへ入部,授業にはあまり 出なかったけど,バンド練習だけは良くやりました.・・・・気が付くといつのまにか人生も後半,回りはリストラの話ばかり, 仕事ばかりじゃなく,何かを始めないと,と思い始めた頃に,大学時代の仲間(フォークソングクラブ)とスイングアウトをやることに. 元々音楽は嫌いじゃないし,月一の練習ぐらいならまあいいかと思って始めてみたものの,若い頃と違って歌詞は覚えられないし, ギターのコードは忘れている,声も出ない,やっぱ歳かな. でも回りを見ていると,結構同じ世代がバンドを再開しているし,まけちゃいられない. これからです色々楽しむのは. 小林 国昭 (69年組) ボンゴ担当。 昭和24年7月19日 神田東大病院にて生まれる。 ウシ年・カニ座・0 型 大森・八王子・横浜の根岸・金沢文庫の柴町(現在海の公園)をへて現在富岡在住の52歳 小学校時代は親父の影響で軍歌・寮歌・武田節の音楽環境。 中学時代は50'の日本語のカバー曲&平凡・明星の世界(いわゆる青春歌謡) 今でも飯田久彦のルイジアナ・ママはカラオケのレパートリー 後半にブラフォーがあってベンチャーズ・ビートルズかなぁ・・・ 友達はエレキを真空管のラジオにつないで音出したりしてたけど・・・楽器には殆ど興味ナシ。 高校時代は根がミーハーなんで、友達が 金に困ってエレキ(TESCO?)売るっていうんで、 とりあえず買ったんだけど、コードもよく分からないし・・・ そのうち友達が送別会にバンドやるのにギターがって・・・又転売。 ビートルズフリークの友達もいて、抽選でチケット当たったんだけど、当日は中間試験の真っ最中・・・ で行けないからって、親を説得・借金(結構高かった?)して武道館へ・・・ でも前座がドリフターズ・・・じゃ〜ね〜! パンフもまだ有るんだけど、湿気でみんなくっついちゃてる。 でもこの頃はなんと言ってもグループサウンズ。ジャズ喫茶イリビタリ状態。 で、最後がカレッジポップス。 予備校を経て、関東学院へ 高校の同級生が現役で先に短大にいて、コンサートにでるんでチケット買ってくれって・・・ で大学へお金払いに行ったら、同じバンドの先輩がいて、 「クラブに入ると直ぐにコンサート出れるんだぞぉ〜」とか言われて ギターも弾けないのに、訳も分からずおもわず入部。ここから今の環境・・・ 当初ギターは大学祭まで友達の借り物 で買ったのが、どうせならって大胆にもマーチン。 でカワセにあったのが「000-18」当然親に借金。 それまでのギターの酷かったこと・・・ フレット音痴じゃないのと、Fのハイコードがエラク弾きやすいのに大感激。 しかし1,2週間後にコンサートにでるからって先輩に貸したら、 ピックで傷つけられちゃって大ショック! とまぁ色々あって現在「BACK! TOGETER」に在籍。 音楽は聴くのと、歌うのはジャンルをとわず好きなんだけど、 基本はあくまでも50’とグループサウンズのおじさんです。 氏家 由恵 (69年組現小林姓) タンブリン担当。 大好きな音楽活動をもう一度〜とずっと思っていました. 中学生の時に買ったギターがきっかけで,大学に入ってフォークソングクラブに出会い,Reason Why(バンド)の 仲間も出来,合宿,コンサート活動など,青春のよき想い出を作りました. 現在,またこんな形で音楽作りに参加でき,すっかりタイムスリップして楽しんでます! 秋岡 和行 (69年組) 湘南高校在学中よりフォークソング研究会に所属し活動開始.歌はジャンルに関係なく,好きなものは何でも歌う. 特に高校生の時,ビートルズの来日公演を武道館に見に行き影響を受ける. 関東学院大学に進学後,GET TOGETHERに参加し,シングアウトの楽しさを知る. 1971年TBSの「みんなで歌おう’71」の出演は学生時代の良い思い出となった. 社会人となってからは,殆ど,歌う機会もなかったが,カラオケの流行後,歌う機会も増え,現在は楽しく歌と 付き合っている感じである. 私にとって歌は人生を豊にしてくれる友だちである. 北村 澄江 (70年組現寺島姓) 音楽を聴いて歌を歌って私はいつまでも若く美しくいたいのです. 大学生になりなんとなくフォークソングクラブに入り,四年間続き,そして今,BACK TOGETHERとして 歌えること,とても幸せです. 森田 純一 (70年組) ベース担当。 私の音楽との出会いは何といってもビートルズです.来日公演の日本武道館のライブは今でも忘れられず以来,今でも ビートルズは暇さえあればCD,LP等で聞いています.高校時代はグリークラブに所属し,バンドを作り活動をしましたが, 何と云っても関東学院大学でのフォークソングクラブに在籍した事は人生にとってかけがえのない時間でした. 当時はベースを担当していましたが,大学を卒業後はベースを弾く事はなくなりましたが,バックトゥギャザーに参加させて いただき,またベースをひく事ができ不安を抱えながらもヒマをみつけて一生懸命練習をして行きたいと思っております. 松下 仁 (71年組) 12弦ギター担当。 別名ビックjin 少年時代は泥にまみれ,都会の文化から遠く離れすくすく元気に育った,昭和26年に南国高知で生まれた田舎者です. 中学生の時,ビートルズが来日し,羽田空港に降り立った時,テレビのバックで”ミスタームーンライト”が流れ, 感銘を受けたのが音楽に接するはじまりで,以来,女の子にもてる為にギターを買い,練習し進歩のないまま50才を 迎え,新たなスタートとしてギブソン12弦ギターを買い,学生時に使っていたカワセのマスターを5万円かけ修理し, 老後で女の子にもてるようギターの練習に日々頑張っています. 現在,女性ファン募集中です ガハハハ!! 木村 友子 (71年組現佐野姓) 野々山みどり(71年組現高畠姓) 松嶋由未子 (72年組現米山姓) 初めてギターを弾きながら曲を歌えるようになったのは,中学一年生の時,近所のお姉さんに習った「星に祈りを」でした. それから,自己流で曲を作ったり,学校の友達とバンドを組みカレッジポップスにあこがれ,念願通り,フォークソングクラブ に入部し,バンドも組みたくさんの想い出もできました. あれから20数年たった今,また,あの頃に戻ったようです. (ステキで優しい先輩方に囲まれて・・・・) 平田多輝子 (70年組)長期休業 |